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軽井沢時代によせて 森澤宗彦(森澤勇・長男 写真工房モリサワ)

 父・森澤勇が写真店を経営していたのは、軽便鉄道・草軽電鉄「旧軽井沢駅」の踏切下、高原バスのロータリー・バス停留所の近くでした。
 写真展に登場する1947年?1960年(昭和22年?35年)と言う時代は、まさに戦後の復興期で、進駐軍の米兵が国防色のジープで父の経営する写真店に乗り付け現像・焼付けをオーダーする折、私や弟達を見つけると「へ?イ・カモン!」と、無造作に自分のポケットから「リグレイ」のチューインガムを取り出して与えてくれたり、甘いピーナッツクリームのいっぱい入っているチョコレートバーや、時にはコークボトルとして有名な「コカコーラ」をもらったりと、チョッピリ、アメリカ気分を味わった幼い日々でありました。

 8月20日の諏訪権現さんお祭りが終わると、朝夕はめっきり涼しくなって、別荘に避暑に来ていた人たちが毎日のように引き上げていきました。そんな時、店に何人かの人が立ち寄って、「使い差しで悪いんだけど、よかったら飲んでくださいね。また来年の夏お世話になります。」と言ってMJBのコーヒー缶をいただきまいた。パーコレーターというコーヒーを沸かす道具があって、一寸早め8月25日前後に二学期の始まる始業式の朝は、家中コーヒーの良い香りが漂って、いつの頃からかこの香りが我が家では、夏の終わりを告げる香りになっていました。帰京する避暑客に父は、必ず言う一言が、「新緑の軽井沢が一番ですよ。スズランの花やさくら草のピンクの花が綺麗です。来年もお待ちしています。」でした。

 黄金色の落ち松葉を踏みしめながら登校する晩秋、山のように薪を積み込んだ荷車を引く馬力がゆっくりと旧道へ向かうのとすれちがいます。「きのう電話していたから、うちへ運ぶ薪かな・・・?」下校すると、裏庭は薪の束が山のように積み上げられていて、楡 ・楢など薪の束は森の香りまで運んできてくれました。 屋根の庇が張り出した軒下にきちんと薪の束を積み上げ、薪ストーブの煙突の補修をしたり、水道の不凍栓の点検が始まり、浅間の峰が白く被われ始め、軽井沢人だけの冬の生活が始まろうとしています。

旧・ゴルフ場の3番コースで長いアプローチの橇滑りも、もう間もなくです。・・・


森澤宗彦