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それは、そこにあったのか? 杉田敦

それはかつてあった。写真の特性をそう要約してみせたロラン・バルトの言葉は、容易に覆すことはできないように思われた。けれども、はたしてそれは本当にそうなのか。旧軽井沢の商店街にかつてあったと言われる写真屋の名前を冠した展覧会が開かれたのは昨年のことだ。写真屋を開業した男の孫が、遺されたフィルムを丁寧に調べ上げ、そして慈しむようにプリントした。男の名前をクレジットするかたちで、写真集も出版された。鶯色のクロス地の表紙を開けると、驚くほど今日的なフレーミングの写真が連なっていた。展示にも工夫が施された。ウォルフガング・ティルマンズ的な要素をさり気なく採り入れたインスタレーションは、男の写真を、特定の時代への係留から静かに解き放った。イメージの内容に集中すれば、何十年もの時を隔てたもののようにも見えたが、撮影の仕方はまるで現代人がタイムスリップして撮影したもののようにも思えた。また現代的な展示は、時間軸をさらに頼りなく捻じ曲げた。しかし、それでもそれは、男が撮影したイメージは、かつてあったことに違いなかった。少なくともそのことに、疑問の余地はないように思われた。

展示に際して、写真屋の看板をモチーフにしたフライヤーが制作された。シンプルに“MORISAWA PHOTO SHOP”と綴られた看板は、いきいきと、そこにかつてあった写真屋の存在を立ち上げてみせた。しかしそれは、最初のうちだけだった。そこには、思いもよらない亀裂が忍び寄っていた。確認のために男の息子、つまりリプリントした孫の父親に送られていたデザイン・プランは、当初何の問題もなく次の工程に引き渡される予定だったが、その後、何度となく色の修正を加えられることになった。背景の色が違う、テキストの色も違う。テキストと背景の色の組み合わせが反対なのかもしれない。いや、やはり最初の配色が正しかったのだろうか……。最終的に指示された色は、納品されてすぐに間違いであることがわかった。オリジナルを知る唯一の手がかりであるモノクロの写真の中で、明らかに明度に差がある領域が、同じ色で印刷されていたのだ。男の息子は、そこにかつてあったはずの写真屋の看板を再現しようとして、かすかな記憶を辿り、懸命に努力したにもかかわらず、結局、行き暮れてしまった。看板ひとつ再現できなくなってしまっているのであれば、あの、確からしい前提も疑ってみるべきなのかもしれない。はたして、本当にそれはかつてそこにあったのだろうか?

写真屋への疑義は、イメージ全体への疑義でもあるに違いない。男が撮影した、避暑地として名の通った軽井沢のノスタルジックな人物、風景は、その時代を生きていない人間に対しても、記憶の基層を探るようにアフォードしてくる。しかし、確かにそれはかつてあったはずのものなのだが、はたしてそれは本当にそうなのだろうか。写真屋は本当にあったのか、写真屋を開業した男、森澤勇は存在したのか。彼が撮影した種々の被写体はそこにあったのか、あるいは、こう言ってもいいのかもしれない。そのような軽井沢は本当に存在したのか……。人間が縁とする、過去に存在したということのどうしようもない脆さ。森澤ケンの手でリプリントされたイメージは、静かにそのことを突きつけてくる。写真は、過去に存在したということを証明するためのものではないのかもしれない。むしろ、それとは逆向きの可能性を思い浮かべてみるべきなのかもしれない。

杉田 敦(美術批評家)