途方もなく大きい動物や、信じられないほど激しい嵐に、僕たちは見とれてしまうことがある。
それらは決して「美」ではない。
だが「美」ではなくとも、僕たちの心は確かに揺さぶられ、時として恍惚がやってくる。
これはまぎれもなく、美学的な経験なのだ。
その経験に、近代の先人は「崇高」という名称を与えた。
それから二百年ほどの間、この「崇高」は、芸術の主題として繰り返し扱われた。
畏れ、緊張、不安を扱った表現は、安寧で平和な「美」を駆逐してしまったかのようだ。
今では「美しい!」という台詞は、「崇高」に対しても平気で用いられるようになっている。
「美」と「崇高」とが、かつては相容れない概念であったということを、人は気にかける様子がない。
二百年経って、美の基準は変化した、と考えるべきであろう。
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生きている写真家にとって、「時間」は常に難問だ。
写真行為は「現在」という意識から切り離すことができないのに、
紙に定着された途端、写真像はその時間にへばりつき、過去に留まってしまう。
自身の生の時間が、写真からどんどん離れて行ってしまうことを、写真家自身はどうすることもできない。
この寂しさを紛らわすために、「記録」という言葉が必要ではなかったのか、と思えるほどだ。
「時間」という運命に逆らうために、流れる「時間」から自由になるために、
写真家は「普遍性」という、近代の美意識にすがった、と考えることもできるだろう。
写真が芸術として成立した背後では、こうして多くの写真家による「時間」への戦いが挑まれていた。
そう考えることが、必要だ。
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もう一つ必要なのは、この「時間」というものを、いま改めて考え直すということだ。
僕たちは、自身ではどうすることもできない、この無慈悲な「時間」というものを、
写真ほどよく人に教えてくれるものはない、ということを、以前から知っているではないか。
そして僕たちは、古い写真に、こうして、どうしようもなく見とれてしまうではないか。
普遍性を目指してきた写真芸術が「手に負えない」と遠ざけてきた、この極めて写真的な経験。
この経験を、写真における、はっきりとした「美学的経験」の一つとして、僕たちはいま、捉えるべきなのだ。
それを今までのように「記録」とか「アーカイヴ」などという消極的な言葉ではなく、
何か別の、現代的な、もっとこの経験に相応しい言葉で呼ぶことはできないか、と僕は考える。
「美」に対する「崇高」のような、うんと新しい言葉で。
いま、その言葉は存在していない。
もし、その言葉が生まれたとしたら、僕たちはどうなるか?
生きている写真家は、今までと勝手が違う世界で活動することを余儀なくされるのか?
写真芸術家としての主体は「時間」によって解体されてしまうのか?
それとも僕たちは、僕たちの実践に、この美学的価値を組み込むことが出来るのか?
それは僕たちの想像力を豊かにするものなのか、貧困に貶めるものなのか?
そして、今までの「写真芸術」が果たせなかった、新しい芸術は生まれるのか?
僕は生まれると思っている。
その予感の中に「軽井沢時代」の写真は存在している。