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「軽井沢時代」について。 森澤ケン

 僕がまだ幼い頃、実家の写真屋には暗室があり、悪さをするとよく閉じ込められた。「アンシツ」は暗くて怖い部屋だった。また「アンシツ」という言葉の冷たい響きも好きではなかった。「アンシツ」で泣き疲れて丸まっていると、やがて木戸が開き、光が入ってくる。その光はとてもまぶしくて、体の奥まで入ってきたような記憶がある。涙目でぼやけた光の中に、いつも決まって一枚の写真があった。それは祖父の遺影だった。向こうの壁から僕をにらみつけているような「じーちゃん」は「アンシツ」と同様に、怖いものだった。


 僕の実家の写真屋(写真工房モリサワ)は、祖父の代から約60年続いている。今は静岡だが、祖父の森澤勇が最初に写真屋を始めたのは、長野県軽井沢町だった。


 祖父は横浜生まれで、戦前は現像所の仕事や、映画製作会社にカメラマンとして所属していたらしいが、終戦後の1947年(昭和22年)、31歳の時に、自分の子供の疎開先であった旧軽井沢商店街の一角に落ち着き、そこで「MORISAWA FOTO SHOP」を開いたのだ。土地柄、政治家や芸術家、進駐軍の人々など、面白いお客がたくさん集まったようだ。


 ところが、軽井沢では夏の間しか商売にならない。五人の息子達を育てていくために、祖父は地元の町議員を務めたりもしたが、結局1960年(昭和35年)に、妻シズの生まれ故郷である静岡県金谷町(現在では島田市)に、一家で引っ越すことになった。彼の孫である僕が生まれたのもそこだが、僕は祖父に会ったことがない。僕が生まれる8年前(昭和48年)に、すでに祖父、森澤勇は他界していたのだ。


 祖父の話は、幼い頃に父からよく聞かされた。その多くは軽井沢に住んでいた時代の話である。カブトムシやサンショウウオを始めとする、生き物にまつわる話。スケート、スキーの話。進駐軍の話。祖父の話をする父は、いつもの厳しい顔ではなく、やさしい顔をしていた。


 実家のそばにある高台に上がり、南アルプスを遠くに眺めながら、軽井沢のことをぼんやりと考えていることも僕にはあった。ここではないどこかへの憧れや、遠くに行きたいという気持ちは、「軽井沢」という言葉と共にあった気がする。


 子供の頃のそんな記憶も遠ざかる頃、僕は東京で写真を学び始めた。祖父も父も通った道を僕自身も進もうと思ったのはなぜなのか。そんなことを自問しながら学校に通っていた。たまたま、実家の建て替えで静岡に戻ったとき、物置に残されていた古びた段ボール箱の中に、そのネガはあった。「軽井沢時代」とマジックで大書きされた箱を開けたとたん、カビ臭さと酢酸の懐かしい匂いがした。それは子供の頃の「アンシツ」の匂いそのものだった。


 ネガを箱から取り出し、一枚ずつ光に照らしてみる。自分が生まれる以前に撮られた写真なのに、どこか自分の幼い頃の記憶が一つ一つよみがえってくるような、不思議な気持ちがした。さっそく東京にそのネガを持って帰り、印画紙に焼き付けることにした。僕にとって「アンシツ」は、もう「暗室」で、怖い部屋から日常的な作業場へとその意味を変えていた。祖父のネガから放たれた光は、現代の印画紙の上にしっかりと像を結んだ。科学的にみれば当たり前のことでも、この像は50年以上もの時間をくぐり抜けてきたのだと考えると、特別なことに思えてくる。はたして祖父は50年後に自分のネガが再プリントされることを想像していただろうか。


 オレンジ色の光の中、まるで「軽井沢時代」からそのまま届けられたかのように、印画紙にゆっくりと像が浮かび上がる。それと同時に、僕の体の中で祖父のイメージが一つずつ増える。一枚一枚、プリント作業を続けることで、遺影の中にしかなかった祖父のイメージはふくらみつづけ、この作業以前には感じなかった、会ったことのない祖父とのつながりを強く感じるようになる。「オレのじーちゃん、スゲー」。そして、あらためて父や叔父から、祖父の話を聞くことにより、言葉と写真がつながり、新たな別のイメージが立ち上がる。断片と断片が重なり合い、一つの大きな像が結ばれる時、僕は自分の役割を感じ、自分の存在が照らし出されているような気がしてくる。すべてはつながっている。


 父の語るところによれば、夏祭りの夜に亡くなった、祖父の最後の言葉は「カッコウが鳴いてらぁ・・。」だったそうだ。祖父が人生最後に見た光景は、新緑の軽井沢だったのかもしれない。祖父を取り囲んでいた者たちは皆、その言葉に涙を流したとのことだ。


2007年5月31日